1967-11-07 第56回国会 衆議院 内閣委員会 第6号
揚げていますぐ輸送する段階にはないと思うんだと、こういう答弁をされましたが、先月の二十七日から、すでに米軍は本国から輸送船をもって広の黄幡地区に弾薬を揚げて、市街地を通って、一日百五十台の弾薬を輸送しておる大型トラックにマル火というこういう大きなマークをつけて、市街地をどんどん輸送しておりますが、当時の大臣の答弁とはだいぶ食い違いますが、そういう点どのように、日本政府はアメリカと折衝されて今日の輸送再開
揚げていますぐ輸送する段階にはないと思うんだと、こういう答弁をされましたが、先月の二十七日から、すでに米軍は本国から輸送船をもって広の黄幡地区に弾薬を揚げて、市街地を通って、一日百五十台の弾薬を輸送しておる大型トラックにマル火というこういう大きなマークをつけて、市街地をどんどん輸送しておりますが、当時の大臣の答弁とはだいぶ食い違いますが、そういう点どのように、日本政府はアメリカと折衝されて今日の輸送再開
○説明員(井上嘉瑞君) 今委員長からお話がございましたその後の船の状態でございますが、御承知の通り、今度の引揚輸送再開以來、船が大分帰つて参りました。第一船の高砂丸は大した事故もなく帰つて参りました。第二船の惠山丸と申します船も大した事故もなく帰つて参りました。残念ながら第三船の信洋丸が事故を起してしまいました。
それは雪が降つたために、非常に分所が荒れており、輸送再開に備えて新らしく分所を整備するための任務を持つて私は参りました。
それから私達、元からあのナホトカにおつたところの大隊は、第一次大隊といたしまして、民主同盟という民主グループを作り、小針君の第二大隊も民主グループを作つて、二つの民主グループが一つの收容所の中にあつたまま、ずつと輸送再開まで続いております。
私共の梯團は、当時將校六百名、市民六百名、併せて約千二百名の梯團でありましたが、翌二十三年の五月三日の輸送再開と同時に、この梯團は第一陣として帰國いたしましたが、私を含む十八名の將校は……元將校であります。
要旨は、昭和二十四年度引揚輸送再開を控えて、引揚者及び遺家族救済のため、これに関する諸法律の改正及び手続の簡易化をはかり、引揚者の復職保証、課税特例、緊急住宅建設、國民金融金庫法の制定、特配物資関係予算の増額等の措置をすみやかに講ぜられたいというのであります。
それかて輸送は停止せられまして、私達はあのナホトカにおきまして、四月の輸送再開までの間あすこにおける労働に從事いたしておりました。そうして三月の二十日に日本から船が來る、そうして輸送は始まる。こういうところのソヴイエト側からの指示によりまして、私達は輸送再開に備えてナホトカにおける準備をいたしておりました。そうして奥地からはどんどんどんどん日本の捕虜が沢山に集結地に集まつて参りました。
○證人(津村謙二君) 期限は、輸送が始まつたときから私は残つており、それは昭和二十二年の四月……二十一年の十二月から輸送はソ連地区から始まつておるのでありまするけれども、私が業務につきましたのは二十二年の四月の輸送再開と同時に昨年の六月まで、ずつとついておりました。かような兵士大会、こうしたものに対して、あの收容所内において行われたところのいろいろなあれに対しては、すべて私は立会つたのであります。
○證人(津村謙二君) 私がこの兵士大会に立会つたのは、あそこの輸送再開と同事に、私はずつとあのナホトカに残りまして、そうしてあそこにおけるところの業務をやつておりました関係上、こういうようなものに対しては私はすべて立会つております。